小山彰太にまつわる四方山話 

******************************

日本5大奇女

彰太さんから日本四大奇女の話しを、何度かLiveの打ち上げ等で聞かされていた。たとえば、Live会場までの道すがら港に寄って皆で景色をながめた後、さあ!と猛スピードで出発した後に、気がついたらメンバーを乗せ忘れていたこと等々、詳しくは個人情報なので、彼女達の了解を取ってから彰太さんがまとめるそうです。

さて、2000年から音三昧ツアーを始め、毎年10月から11月まで、彰太さんと私の誕生日ツアーと称して札幌近郊を廻っていました。(彰太さんは10月・私は11月で同じ蠍座です)ライブ当日、我が家から車で30分くらい離れた彰太さんの実家に迎えにいくのですが、ツアーを始めて5年間くらいは真っ直ぐ着いたことがありません。団地の住宅街から抜け出せなくなり、ガソリンスタンドやコンビニで、ここがどこなのか聞いて、目的地を捜すのがパターンでした。

思えば、ここで曲がっても行けるのでは、行ってみようかな、という好奇心に勝てないのです。その結果、見たこともない道路に出てしまい、見覚えのある橋は遙かなた反対側にあり、その上Uターン禁止で、さてどうする状態におちいる。
夕張・岩見沢・恵庭・・(札幌から1〜3時間の場所です)にツアーに出かけるようになり、事前に地図を送ってもらったり、グーグルでしらべて行くのだが・・まず一発で着いたことがない。着いても、やっとかっとという状態で、メンバーも私の地理感を信用はしていない。運転から迷いや不安が伝わるらしい。

彰太さんは今でも打ち上げなどで、私の行動を、おもしろ・おかしく脚色して話す。
道が二本あったとすると、必ず間違った方の道を選ぶし、市街地に向かっているつもりで走っていると、だんだん人家が少なくなってくるし、確かこの辺、たぶんあの建物だろうと当たりをつけていくと、必ず見当違いである。仕方ないので、電話して、現在地を言い、場所を確認するという行程を数度繰り返して、最後に「そこを動かないでくださいね」と指示され、向かえに来てもらうはめになる。

宣言された時は、もう3度目の岩見沢・琥珀である。とりあえず無事高速にのり、旭川方面の標識を確認し、岩見沢インターで降りる。順調である。

岩見沢市内に入ると、心配した彰太さんから「大丈夫?」と聞かれる。「大丈夫ですよー。もう三回目ですよー、任せてください」と余裕で答える。しかし、去年あったはずの曲がり角の目印が無いぞ。うーん・・と焦りだした時、反対側の空き地にパトカーが止まっているのを発見、おお神様はお見捨てにならなかった。すぐさま、パトカーに車を横づけして、お巡りさんに道を尋ね、説明に了解して車に戻る。
「あれ、事故の対応で来ているパトカーでないの?」
「そんな気もしたけど、住所を聞くには一番いいかなと思ったの。」
「事情聴衆を受けていた人もびっくりだね」とあきれた顔で彰太さんが言った。
お巡りさんに教えられたとおり、そこを出てまっすぐ右折する目印に向かった。 交差点を曲がってしばらく走ったが目的地は見つからず、どんどん約束の時間も差し迫ってくる。途方に暮れかかっていると、幸運にもそこにもまたパトカーが停まっているではないか。そして車を横づけし道を尋ねようとしたら、なんと先ほどのお巡りさんでした。
お巡りさんも、事故を起こした人達も、私も!、「エーまた、なんで?」という感じではあったのだが、また親切に教えてもらったのだ。すみませんでした。

車に戻ると彰太さんと朋子さん(ピアニスト)の二人は大笑いしていた。
その日、Live終了後の打ち上げでは、彰太さんからこの話を聞いた他のメンバー(奥野さんと秋田さんや、岩見沢の大徳ちゃんたちにも、「二回めも、真剣に事故の検証しているところに行くんだぜー」と、私は大笑い者にされた。そして、彰太さんから、先の日本四大奇女にもう一人付け加え「日本五大奇女誕生」と宣言された次第です。

2012年は、行きなれたはずの岩見沢で、アフリカンドラム奏者二人と彰太さんと、外山さんのliveがあった。彰太さんは「知人が送ってくれるから僕はいいよ」とのこと、安全な方法を選んだような気がします。 それで、別のLiveで来札していた外山さんをホテルまで迎えに行き(一発で着く)、国道36号線から高速の乗り口に向かう・・向かう・・向かう、が、隣りを走っている高速道路は見えるのだが、「なんでー!」か、乗れない! 外山さんは「ゆっくりと一般道路の旅も僕は好きだよ。」と、おっしゃてくださる。 よけいに冷や汗が・・。恵庭という標識を見つけ、道路沿いのコンビニに入って聞くと、「1本下の道路を来てましたねー」といわれた。岩見沢へのを教えてもらうが、もう辺りはすっかり暗くなっている。 札幌を出て2時間半かけて鈍行ドライブ・live会場には、迷わず到着!

打ち上げ終了後アフリカンドラムの三田さん(4時間程かけて後志・喜茂別に帰る)が、高速入り口まで先導してくださる・・トホホ。  高速に乗ると1時間かからずに札幌に入り、外山さんと4汽筒のメンバーと待ち合わせの飲食店に迷わず着く!

【注釈】 札幌から岩見沢までは、旭川方面の高速を使えば20分ほど、国道12号線で行っても一時間はかからない距離である。
彼女の失敗は、苫小牧の方に向かう36号線を、確信を持って、これを真っ直ぐに行けば岩見沢に到着すると走っていたことである。そして皆さんの推測通り、隣の高速というのは苫小牧・函館行きの高速である。そして、さすがに途中で変だなと思って道を尋ねたところがまだ、苫小牧手前の恵庭であったのが、不幸中の幸いであった。「1本下の道路を来てましたねー」の意味がよく分からないが、コンビニの店員さんもまさか札幌から来たとは思わなかったのであろう。そして、栗山を経由して岩見沢に着いたようだ。ある意味すごいです。【注釈終わり】

興奮するなと言われてもなー

 彰太さんは今ではすっぱり煙草を止めている。 禁煙歴4〜5年になるのかなー きっかけは 今から 4〜5年前の北海道ツアーが始まる前日!のことでした。   

 昨日夜中に血圧を診てくれる病院を紹介してくれ〜!と彰太さんから、kちゃんに連絡が入ったそうな。 翌日に詳しく聞いてみると  実家で彰太さんのご母堂が日課の血圧を測っていたそうな、 興味を持った 彰太さんも測ってみると  一瞬何かの間違いかと、再度測定してみる、ちょっと間をおいて、もう一度はかってみる、何回測っても 「最高血圧200越え!」   血圧には素人の 彰太さんでも、これがただごとではないことが分かり、どこも具合は悪くないけど、明日からツアーだし、倒れたらと、kちゃんにどこか良い病院がないかと連絡をしたそうな・・。

 Aさん・kちゃん付き添いのもと、N脳外科記念病院を受診したそうな、今まで倒れたこともなく、自覚症状がないことも不思議がられたけど 「いつ血管が切れ、脳卒中・脳梗塞になっても、おかしくない立派な高血圧」 と診断され、薬を処方され、東京に帰ってから、改めて受診することとなったが、  医師曰く 「症状が安定するまでは、できるだけ興奮しないように」と言われたそうです。
 「興奮するなと言われても、俺の仕事は興奮しちゃうんだもん・・・」

 彰太さんは、次の日からきっぱりと煙草を止めたのでした。  札幌に来ると、毎回どこそこのラーメン屋に行く彰太さんですが、スープを全部飲むのも止めたそうです。 東京にもどってから、改めて通院も始め薬も飲むようになりました。

 私は「ずーっと、血圧なんか測らなかったら良かったのに、 そうしたら高血圧の状態を、いつもの自分の体調と思ってただろうし、万が一でも太鼓叩きながら昇天するなんてドラマー冥利につきるじゃない・・煙草も止めるし、命根性が汚い!」と、のたまった次第でございます。

 2013年9月に札幌に活動拠点を移したものの、2014年5月にはアケタで連ちゃんLiveで山下洋輔さん、本田珠也さんとのDUOなど・・興奮しまくることが、お仕事です。

 現在は薬を減らそうかと思う程、血圧は下がった状態で安定しているそうです。  そして、薬で血圧を下げるのは、体に対して不自然な気がしているようでいらっしゃります。  それにしても、「興奮しまくるのが。お仕事」 羨ましい限りでございます。

 ちなみに私は煙草が値上がりしようが、癌にかかろうが、昨今の「禁煙ファシズム」にあらがって、  高校生からの喫煙歴を今だ更新しております。  「酒・煙草・音楽」は私の必須栄養素でございます。  煙草の苗を販売しろー家庭菜園させろーと、静かに憤慨しております。

 今年から 彰太さんは「人間土に触れなきゃあー」と、ご友人と当別まで出かけ、「家庭菜園」なんぞを始めております。   豆とトマト、できたらとうもろこしと野望と狸の皮算用をしておらっしゃりますが、私は煙草等を育ててくれーと願う次第であります。

『セネストパティ』(GAIARecords)

【小山彰太&林栄一】in苫小牧アミダ様

酔っぱらいたちの一言から、瓢箪から駒

2000年に往来トリオを札幌に呼んで、すっかり疲労困憊した私はその翌年のツアーはYさんにまかせLiveを楽しむことにあいなりました。

札幌からYさんの軽自動車に4人で乗り込み、向かうは釧路「JAZZ THIS IS」 延々と山・峠を北北東へひた走るのだ。札幌にすんでいる者にとっても気軽には行けない、とっても遠い。
 6〜7時間車の中・・酒も飲んでないので 、おもしろ・おかしく会話がすすむということもない。

一日めは、それなりに無事終了・釧路のブックエンドでの打ち上げ、ほろ酔いも混ざり、今宵の宿(ビジネスホテルでもラブホでもない・・老舗でも温泉宿でもひなびた風情ある宿でもない!ただの屋根と戸がある旅館であった・・私は何を期待しているのか?)に着いてから、彰太さんに鍵はかけないから・・いつでもOKと、恥じらいをひた隠しに、冗談混じりに思い切って言ったのに・・ツーアウトフルベースで敬遠されて、延長線にもつれこんで、打順がもう廻ってこない気分であったのだ。トホホ・・・

時々年末に会いに出掛けた新宿PIT・INの年越しLiveが終了した後も、ビジネスホテルまで東京のボーヤの車で送ってくれたことはあっても、飲みに誘ってくれたのはベースの井野さんで、かろうじて 彰太さん・井野さん・私の3人で紹興酒をボトルで2本飲んだくらい・・、アケタの店でもlive後に缶ビールをご馳走なったことがあるくらいで、札幌でデートに誘っても、サラッとかわされ・・品行方正な彰太さんにかかっては、女冥利につきるという経験は皆無で・・・北海道のぼーやに徹するしかない私である。

釧路の朝市で朝食を朝食を摂り、しょうもない男達との珍道中。苫小牧あみだ様に着いたのは夕方近くなっていた。愛しい栄ちゃんと彰太さんのDUO・・でもお客さんの数は10人にも満たない・・もったいない
 LIVEが終了して打ち上げで、マスター心づくしの炊き込みご飯をいただき、ほろ酔い加減がいい感じで回り始めた頃、
「なんか、いい感じの音だねー」と彰太さんがつぶやく。
「さっきのLIVEの音源だけど・・・」マスターが言う。
「エーッ」
「な、なんか良いよねー」と栄ちゃんに水を向ける彰太さん。Yさんもいたく気に入り、 しばしアンコールタイムのように、また先ほどの余韻に酔いしれるのでした。

彰太さんはしこたま飲み、気がつくと、お客さまであろう小股の切れ上がった女性(どこかのママだそう)とレッツキッスのように肩に手を乗せ踊っているではないか。
しばらくしてズコーンと音がして思わず振り返ると、彰太さんが床にひっくりかえっていて頭を押さえている。『なにやってんだか・・・』と私はやっかみ半分の冷めた目で、LIVEが終わればただの酔っぱらいのおっさんを起こしに歩むのでした。

苫小牧を後に札幌に向かったのは、深夜というか、もうAM4:00の明け方である。 衆議院選か参院選が近いらしく、街には選挙公示ポスターがあちこちに掲示されていた。
 突然車の窓から顔を出した彰太さんは 『有権者の皆様、小山彰太でございます!この度東京から参りました!』と、後は何をどなっていたやら確かではないが道行く人を見かけては絶叫していた。

よほど、気持ちの良いLiveだったんだろうなー、と好意的に受け止めつつも、明日は札幌でのLiveだし、その前に仕事にも行かなきゃならないし、眠る時間がない、静かにしてほしい、早く帰りたい、ちょっとでも休みたい。

ツアーが終わってからYさんは再び苫小牧に出向き、マスターから音源を譲り受け、栄ちゃんと彰太さんに承諾をとり、出資金をつのりCD作成にとりくんだ・・その時の音が『セネスト・パティ(体感症)』である。

(じゅんこ)

この『セネストパティ』は、もはやアマゾンコムでも手に入らない幻のCDです。しかぁーし、預かった物がまだ7枚残っています。欲しい人は連絡してください。送料込み3000円です。

スネストパティのCD帯画像

結成40周年記念!! 山下洋輔トリオ復活祭

2009年 7月19日 (日) 日比谷野外音楽堂 17:00 雨天決行

2000年から、彰太さんを札幌に呼び【音三昧ツアー】を開催し、様々な人たちに出会いその都度、昔の山下洋輔トリオの話しを聞かされていた。中古レコード店で、山下洋輔トリオ時代の『モントルー・アフター・グロウ』を手にした時の第1印象は『若っ!』『フリルの白いYシャツ?』『髪がある!モヒカンにしたのはいつなんだろう?』と、ビジュアル的な新鮮さに驚愕しつつもレコードを聴いた。元気なドラムだなー・・でも今の音が好きだなー、坂田さんの歌だー、赤とんぼだー、と楽しく聴きました。

別々に聴いたことはあっても、山下洋輔トリオの小山彰太を私は知らない。 Jazz界では衆知のそのルーツも知らずに、その音を聴いて惚れ込んでから、山下洋輔トリオ時代を知ったんだもの。

ものはためしと、『結成40周年記念!!山下洋輔トリオ復活祭』にでかけることにした。いつもは新宿と荻窪を行ったり来たりしやすいように新宿にホテルを予約するのだが、今回は休みも取れないハードなスケジュールなためアクセス優先の浜松町にしたら・・ゲーというビジネスホテル・・なんで東京は高くて汚いのだろう。まっ、横浜Jazzフェス時の桜木町のソープ街のホテルはもっと悲惨だったけど・・

暑い!蝉がうるさく鳴く中、地図を見ながらバスに乗り、方向音痴の私がなんとか日比谷野外音楽堂に着き、彰太さん気付けのチケットをGET! ビールを持参すると良かったと後悔先にたたず。座席の周りはご年輩やら、中年のおやじさま達だらけ、仲間でプシュ! プシュ!我慢できずに売店に・・

年代毎のメンバーでの演奏が始まる・・周りは熱狂的でした。そうなんだろうなー青春時代だもんなー
チラシにも『〜15年間の活動の後、トリオは1983年に解散します。しかしそれ以降も、その爆発的演奏は「伝説」として語られ、同時代を生きた者の胸に熱い記憶を刻み込みました。その演奏を生では体験できなかった世代からは、羨望と憧憬を集め続けてきました。〜』

私はリアルタイムで山下洋輔トリオでの小山彰太を聴いていないけど、それは時代のなせる事。山下洋輔トリオを聴いて、今の小山彰太の音を聴けないまま亡くなっている方もいるでしょう。と、羨望と憧憬を持たない私めは、菊池成孔かっこいいなー、栄ちゃんのSaxが好き、札幌のLiveをベロンベロンで壊した國仲めー、これでトリオ座ができたのかなー、やっぱり彰太さんのドラムが好き!と再認識したわけです。往年のロックバンドの再結成を良しとする方もいれば、小説の映画化をみてがっかりする人もいるでしょう、メンバーは復活祭を楽しんでいるんだろうなと思いつつ、私は40年前を彷彿とさせるという感想もなく、やっぱり50人くらいのLiveが良いなーとい不う届き者でした。(山下洋輔トリオでの小山彰太の音を好きになったわけでないものなぁ)

アンコール後、彰太さんの奥さんに誘われて楽屋を訪ね、ハグして照れる。しばらくぶりで随分痩せてしまったウップさんに会えたことや、やっぱり今の彰太さんのドラムの音が一番好きと再確認できた旅でした。

他に行くところも無いので近くの東京タワーを見物し、浜松町のビジネスホテルに戻り、明日は仕事だと現実に引き戻されるのでした。

(じゅんこ)

笙野 頼子  【言葉の冒険、脳内の戦い】

             芥川賞・三島賞作家初のエッセイ集  日本文芸社より

一身上の感性 小山彰太

嫌いなドラマーは少ない。いやそもそも嫌いだったら聴きにいかない。嫌いなのを確かめに行くために 出かけていくような体力はない。好きだと言っても生命力が残っている時にそれを振り絞って聴いているのだ。

上京して二年間くらいはよく出掛けたが、ドラムとは何かと考えに行っている面があった。

無論演奏家の側から言えば楽器は楽器に過ぎないのであって、こっちは、ドラムと手で記し、或いはワープロで打った場合に、そこから染み出して来る言語世界の事を考えているのである。

ドラムという単語を記した途端にそれはいきなり二つの方向に増殖を始める。ドラムという比喩、それからドラムが人間の肉体を通じてもたらす言葉のリアリテイだ。 その二つの関わりを考えるためにドラムを聴く。 だがどこからその関わりを取って来るかという事はそもそも、作家の自由なのだ。結局好きだから聴くという感じになる。そんな過去の悪あがきを最近作品化してしまった。(今度発表する)。

ライブハウスに行って何かを書くと決めた時、またドラムを聴いてみようと思ったのだ。で、誰を、というと小山彰太を聴きます、になってしまった。今まであまり聴いていなかったのにである。追っかけと間違えられそうになる程聴いたドラマーの記憶がもうなくて小山彰太だった。こう書くとまるで毎日コンサートに行っていたなんでも知っている人のようだが、五年四畳半に閉じ籠っていても平気だった不精者の言い種である。

聴けるだけ聴いて、ぱたりと行かなくなり、私の少ない体力と乏しい感性はもうつきかけている。

いやそう言えば一年前にギル・エバンス・オーケストラを聴きに二年前にジョアン・ブラッキーンを聴いた。

ジョアン・ブラッキーンの時のドラマーがビリー・ハートでその時もそうだ小山彰太を聴かなくては、と思ったのだった。別に比べようという感じではなかった。様々なドラマーを聴けば聴く程、小山彰太に向かうからくりがどうも出来ているらしい。 純文学という言葉が世の中にはあるが純ドラマーという存在があるかもしれない。 気が済むまで小山彰太を聴いてしまったら後はもう何も聴かなくなるかもしれないのだった。

始めて行ったコンサートが合歓ジャズフェステイバルだった。 私はその頃シュガー・ローフ・エキスプレスが好きで、ナベサダも好きでキャプテン・カリブで踊るつもりだった。同行の身内は山下トリオを楽しみにしていた。山下トリオのレコードは布教活動のようにして強引にその身内に聴かされたのだが、レコードで聴いた時のドラマーとは違う人が出て来た。 それが 小山彰太だった。

日本の太鼓みたいだねえ、素直なのになんか特徴があるねえ、と連れに言った。
 ドラムのステイックからの連想なのか白木を完全な円形に曲げたようなものと人間の体が混じりあって、凄い早さでしかもおおらかに回っているような感じがした。 回っているその円はいつもふっと外へ飛び出して薪か何かのように飛んでいきそうであったが、決して外へ出ない。ずっと続いている。その続き方はどうも気になる。

あれはトニーウイリアムスの影響なのです、と誰かが後になって教えてくれたはずだし、そのコンサートからしばらくしてトニーウイリアムスを聴いて凄まじく感動したはずだが、印象は全然混じっていない。 いやむしろ、随分後になってオーネット・コールマンと共演している時のビリー・ヒギンズのレコードをどこかで聴いて、あれ、なんか、と思った事はあった。そういえば、トニーウイリアムスを聴いてもあまり感動しなくなったのはいつ頃からだろうか。 コンサートで聴けたのはほんの何回かなのに、ロン・カーターとハービー・ハンコックが非常に余裕ある雰囲気でリズムを盛り上げているのに、別に疲れてもいないのに眠ってしまった事があった。翻弄されて何も残らない、という感じだった。いや、以前から退屈で眠ってしまうレコードというのが一枚あったのだが。
 小山彰太を二度目に聴いたのは六、七年前の都内のコンサートである。圧倒的な音色と体力のドラマーがいて、私はその音を聴きにいったはずであった。 楽器のできる人が、そのドラマーを評して、あれはよく鳴るからなあ、と言った。が、音色はともかくドラムソロが長く続くとなぜか音楽から気がそれてしまう。

その後に出てきて小山彰太は最初に凄い音を出した。
 前の印象が消えてしまった。 音の陰影に気を取られた。 緊張が高まって音の内側に引き込まれていく。
 そこまでするかと思う程いろいろなフレーズを叩くが何か一貫したものがあって説得されてしまう。
 自分を追い詰めていく事で出てくる緊迫感なのかどうかは素人には判らないのだった。
 拍手は当然多かった。(そう言えば外国のコンサートでトニーウイリアムスを喰ってしまったというのを山下洋輔のエッセイでいつだったか一度よんでいる。 今思い出した。)

三度目に気付いたのは、ジャズ喫茶であった。 当時はプレーヤーも持っていなくてレコードは全部そこで聴いていた。 作品に使おうとしていたので(結局一切使わなかった)浅ましい程次から次へとドラムばかり聴いた。が、それは別にリクエストしたのではなかったのだ。ベーシストのアルバムだったというおぼろげな記憶しかない。 端正に刻んでいく硬質な音がいきなり立ち上がり、すっと引っ張られた。
 何時間も座っていたの挙句でいい加減音楽に飽きていた時であった。 飾ってあるジャケットのところへ行ってドラマーの名前を見た。 おや、と思った。 だがそれから何年経っているだろうか。

評論の出来ない人間が文章で他者を描写すればどんな書き方をしても結局悪意になってしまうのだとライブハウスについてからその日完全に判った。 演奏する体に、汚い言語で、横から音楽の営みを切り取りにくる人間は害虫といえる。

ともかく 小山彰太を聴いた。  一貫したシンバルの音が、色合いを重ねながら変わらぬ感性で広がっていく。
 ずっと続いている、百年くらい続いていたかもしれない、と思う。
 ベースが歌い始めると雨に反応する胞子の繊毛のように、あなりの自然さでそこに絡んでいく。
 あなたはだれですかだれはそこですかそこはどこでどこがわたしですか、と終わりはない。
 どんなかたちでなにをしていてもぼくはこやまですこやまですもうほっといてください、とも。 そう叩きながら押し殺したような気迫で舞台を押さえている。 正体は判らない。
 ドラマーの上体は楽器から生えている植物のようだ。 小山彰太には自分のアルバムがない、信じ難い事だ、とどこかで聞いたような記憶がある。

              群像」 1993年11月

【 ジャンボ!オブリガード 】 ブラジル&アフリカツアー交換日記 より

     著者 ピアニスト 板橋文夫 2001年 12月20日 竹内書店新社刊

”ざっくらばんば”in アフリカ  小山彰太

             〜  Mix Dynamiteトリオ  〜

アフリカに行った。(あのアフリカである)ありがたいことである。(本当にそう思う) 老人力が(忘却力・拡散力・寄生力、さらには、老人的決断力=優柔不断力や所詮力は言うに及ばず、何事に関してもとりあえずケッ!と言う、とりケカとアホさらせ力、それがどうした力、どうでもええけんね力などもふくまれるであろう。)益々ナニしているワタシにとって、この旅は(ナイロビに5日間、セイシェル に5日間という実にバランスのとれた日程であった。 何事にもバランスが肝要である)なまら(”非常に”の北海道弁。なまら、うすたら、うすったらん、などにも変化する)喜ばしい限りである。

準備万端怠りなく(黄熱病、A型肝炎、さらには破傷風の予防接種まで受けてしまった。このあたりあくまで慎重なワタシである)エイヤッ!(実際は”ヨッコラショ”という態度であり、表現に多少の見栄が感じられる)とばかりに飛び立ったのであった。

着くとケニヤ(かつて、”少年ケニヤ”というテレビ番組があったが、人名でなく、れっきとした共和国の名であることを、改めて確認した。)のナイロビ(なにをかくそう、ケニヤ共和国の首都なのである。)は今日も雨ではない。(長崎ではない)  アフリカとは言うものの海抜千七百メートルの高知で、思いのほか涼しく、加えて都会である。

マラリヤ対策でかき集めた防虫スプレー、蚊取り線香、さらに超音波蚊撃退グッズ(板さんに一個もらい、さらに一個購入した。 超音波による蚊撃退 というすぐれものらしいが、後述するように、その効果は不明也)などがほとんど無駄と化したのは(いいではないか、無駄のない人生というものは窮屈このうえない)言うまでもない。

ナイロビでは、パーカッション教室を見学したり、民族音楽の店に行ったり、ナニしたりカニしたりした。(この辺のことは、板橋氏による本文を見よ。) 本場のサファリにも行った。本場もんのキリン(やはり首は長かったが、オレ達を待っていたわけではない。)、シマウマ奴等が数頭かなたに見えたときは、やはり感動もんであった。(在るべき場所わきまえて在るものは美しい。) 爽やかなる風を受けつつ広大なサバンナを眺望するに、”自然はやはり笑っている”とつくづく思ほ(なぜか”楢山節考”のおりん婆さんを思いだしてしまった)・・・(詠嘆)。

ナイロビ の最終日は、ナニノナニガシ(詳細は本文を見よ)というレストランで板さんが(我らがトリオのリーダー、板橋さんのことであり、決して板前さんのことではない)
前年の一人旅のときに作ったオリジナル曲を、セッションでかますということになった。 現地の連中に教え込むのであるが、ブレイクして”ジャンボ”、”ハバリガニ”(スワヒリ語でこんにちわ!”元気ですか?”の意)などと大声で言えと曰う。
 偉い!と思いましたね、アタシャ。
 ”あんたらの音楽も私を通したらこうなったもんね”という在り方が明確でなんら臆するところがない。
 我らが板さんの面目躍如であり、いたく感服つかまつった次第である。 (冷静に考えると、よく知らん外国人が、日本にやってきて、「曲作ったから、アンタラ、合いの手に”こんにちわ!”元気かい!などと言いなさい!!」という状況であるから、マア不思議な感じではあるが・・・・。)

本番はオモロ楽しく、強者六人のリーダー格であるハッカケさん(歯が欠けていたので、敬愛の意を込めてこう呼ぶ。)やチョイカケさん(歯が少し欠けていたので・・)なんかと眼が合ったりして、ニカッとされるとなぜか安心して嬉しくなった。(”馬鹿じゃ出来ないが、利口じゃやらないバンドマン”てな者が、どこにでもいるもんだと納得して。)
 彼等の音楽に交じって演奏しようともしたのであるが、どうもシカケ(オッ!と思わすような決め事としてのフレーズ)のところがよく分からん。
 ナイロビ在住の偉大なる大先輩・石川晶さんにお伺いをたてたところ、「連中は結局一拍でいっておる」 とのこと。 結局よく分からず(考えてみればそんなに簡単にわかるような物事など、ないのだよ、この世界にはさ。 よしんばわかったとしても、それはどうあがいても”私にとってという意味でしかなく、つまるところ、理解とは、”誤解・錯覚・ララ勘違い”というところが・・・・。)、おそらくコトバとの怪しい関係があるのではないか?ってなことを思いつつ、あっさりとあきらめて(何事につけ、諦めは肝心である。)
一挙にセイシェルへ飛んだ。

世界に名だたるリゾート地であるセイシェルは、さすがにあちこちリゾートしていて、赤道直下のこの地は”熱帯常夏の島”丸出しの感がある。 南国特有の樹々に咲く花奴等も、化粧が濃く(マア、嫌いではないな、オレ。)、これ見よがしに開き切りあられもない。(この状態も、やぶさかではないなオレ。)
 太陽は正しく六時頃”オラ、朝ダ朝ダ”と昇り、カアーッと真上まで上がり切って”オラ、オラ、ドーダ!!”と挑発し、やがてスーッと落ちてゆき、正しく六時頃、”ホンジャ、またナ”とドライに没する。(”春はあけぼの”だの、”残照がどうした”だの、それがどうしたっての!) 赤道直下の太陽は、やや騒々しくも、あくまでイナセであった。

このセイシェル では、ジャズフエステイバルということで、現地の関係各位の皆様方が色々と気を使って下さるわけである。 演奏は三日間あったが、リハーサルの為になぜかいつも朝十時ロビー集合であった。
 野外会場の時などは、集合してから延々待たされ、会場に着いてからもピアノが到着せず、で待たされ、本番では、暑いから日差しがかげるまでとかで待たされた。 決してナメているのでは決してない!・・・はずだ。

待つのである。ただひたすら待つ。”ゴドーを待ちながら”(後藤さんではない)梅干しを(前橋在住のピアニスト、書上さんにいただいたものである。うまかった。)”小さい秋イみいつけたあ〜”などと口ずさみつつ( ”四季を愛する人はあ〜”などとも口ずさんだが、いずれにしても、頭上から真っ直ぐ照りつける暴力的な太陽のもとでは、なぜか空しい。)待つ。

初めての地における演奏を前にした初々しいまでの期待と不安は、移ろいゆく時の流れと共に、ある種の焦燥と疑惑に変容し、さらには、苦渋忍従失望増悪、謙虚反省信頼希望、絶望憤怒怒髪天、海老天寒天毘沙門天、慈愛諦観昆虫図鑑、無心放心無感動、虚心坦懐無味無臭、アッソレー、(思わず、はずみで合いの手が入ってしまった)色即是空空食是色と、悟りをひらいちまった(考えてみると悟りでも何でも、開きっぱなしはよくないのではなかろうか。開きっぱなしは恥ずかしいのではないか。開いたり閉じたりした方がよいのではないか、そのダイナミックスがオモシロイのではないか)わけであった。

であるからして、一切を赦そうではないか!レストランにて、作務衣をパジャマと見間違えられ、咎められたことも(井野さんの機転で「この方は日本の高僧也!」と、小生に合掌してみせたということで、きゃあつらも納得し、私も気が鎮まり、大事に至らなかったは幸いであった。)赦そう。
 天国に一番近い島といわれるこの島が若干天国に近すぎていたということもそれはそれでよいではないか!今となっては、森羅万象神社仏閣、すべて往来(『往来』というアルバムがある(オーライレコード)。ここで一曲小生が、ハモニカを吹いておるので、心して聴くように!)であるのである。

そんなわけで、演奏を無事終え、帰りしなにロンドンに立ち寄り、知人宅(板橋氏のマネージャーである鈴木女史の姪御さんのお宅にお邪魔した。 旅の終わりに、ありがたいことであった。)にお伺いしてすっかりおもてなしを受けつつ調子づいてワインをコキ飲み、帰りの地下鉄でゲロを吐いたって(ロンドンという場所をわきまえた、極めて紳士的な吐き方であったと聞く)なことを噂に聞くが、マアそんな気がしないでもない。
 赦そうではないか!!! いや赦しなさい!! スマン赦してね!という、マッ、そのような旅であった。・・・・・ような気がする昨今である。

中央線ジャズ決定盤101

〜 極私的こだわり ジャズ・デイスク・ガイド〜  監修 明田川 荘之   音楽出版社 より

『音三昧U〜 小山彰太デユオ集 』 小山彰太 Ohrai Records

  6種の楽器による6人とやった6様の、たまらなく愛しい共生とさぐりあい

当時の山下洋輔トリオは、唱える原ジャズのひとつの完成型を示さんと全霊をもってシーンを跳梁跋扈していた。長い病床からの帰還直後に第一期トリオは結集され、まだ荒削りながら全力疾走で日本ジャズを踏破、その先に広がる仏国土らしきを聴衆に映し出してみせた。フロントの中村誠一が坂田明に変わろうと筋立てに変わりなく、世界における台風の目となり坂田の急成長に合わせてフルパワーをまとう。ただ私生活を犠牲とする日々の連続にふと考えたドラマーは、この時期に成すべきもっと大切な何かを逸なう気がしてならなくなっていた。

北海道でアート・ブレイキーを聴きジャズに惚れ込んだ中学生は、やがて進学する早大の学園祭でヒートアップする山下トリオを見てから森山威男の気迫にこそ傾倒する。まだ学生あがりの無名ながら深夜クラブで見受けるのは、当時歴任するグループで夜を徹し叩き続ける小山彰太の姿であったとか。機械体操で培ったスタミナのことをリーダーは高く買い、森山の後任として哲学者はだしのこの若く殺気立った太鼓叩きをメンバーに加えたのが七六年一月のこと。

入団直後に臨んだ欧州ツアーで、すでに前トリオに親しんでいた大観衆はこの新しいドラマーのことを注目した。同じく質が下がるのを恐れたホルスト・ウェーバーだが〈そうした心配を晴らした小山は音楽的に完全に山下トリオと親しみ、合体していた〉と膝を叩く。そんなジャズ祭の模様を収録した『モントルー・アフターグロウ』のライナーでは野口久光も〈嘗てのトリオのメンバー中、ドラマーが森山から小山に変わっているが、そのための弱さは全く感じられない〉と太鼓判を押すのである。以来トリオでの活動をはじめ山下の旺盛な好奇心にとことんつき合い、結局八年間在籍した同グループを離れたのが八三年も末になってから。

山下のグループで小山は、自己のパワーを信じ直進するようにみえるこの集団の趣向が、じつはそれぞれ発する音の綾にこそ重点を置くのを身を持って体験する。だから阿部薫も高木元輝も、一時はここに在籍しながら結局定着できずに終わった理由なのだと評論家・福島輝人は分析してみせる。小山の活動とはかつてと同じ視点に立ち、あるいはそんな共生創造の場をさらに深く掘り下げ、バンド全体をバックアップするため存在するかのようにも思えるのである。

名が示すとおり一期一会の結成もその延長線上に違いないし、指向の異なるクセ者たちとのデユオ編成で臨んだ“音三昧”シリーズは、その究極を示す二連の金字塔と言っていい。「T」はかつての山下グループにおける朋友らとの同日、あるいは翌一月沖縄無音館でのデユオ録音で構成、「U」は山下以降心を通わせてきた異色派六人との色彩豊かな七曲を配置してある。

加藤がギターで醸す幻想的音響の宙空を、鋭いスネアの打音でモガき模索し打開し、秘境の深淵を見せる。なんと厳しく爽快な音世界であろう。原田の内省的でヒステリックなピアノとの、がっちり四つな視点からの瞬発力ある高密度ドラムの応酬こそ見事。吉野とは室内楽の厳格的無調サウンドを創作。細かく刻まれるブラシで、ベースのどろりとした重い空気感を掃き清めてみせる。登の骨太テナーがトリッキーでざらりとした触感を吹ききり、山下時代のあの鋭く激しい手法でこれをプッシュする場面は面目躍如たる一矢。童謡かただの風音か・・・宅は涼やかな幼女の鼻歌をして幻覚のような桃源郷を表出する。大地の鼓動らしいマレット音が呼応し、苦痛や哀れみや歓喜の雄叫びを呼び起こす。井上のおどろおどろしいアルトは掠れ歪み粘り咆哮し、乾いたスネアはそれを宥め、同調もする。ここでは滑稽なアルトが浮き上がらせる図形に、小山は少々の批判精神をして色を添える役である。

(長門竜也)

短歌集『野良猿の記』より

やで あじきたかな 音三昧
(幻の最新傑作「音三昧T。U」(おうらいレコード)が出ておるので、すぐさま入手し 心静かに聞くように!わかりましたね)

                       山章太
                                  平成十三年神無月吉日