くざらんか ばんさのはての あけしめを
ぴろべにかなう すちょろもんけ
山彰太
「勝負は勝ち負けではない!」という”せめらもっけ”な、お言葉についてのエッセイも温め中です。
ライブ情報誌・オーデイエンス5月・6月号に連載されている、彰太さんのエッセイ「起承転結」です。
コンニチハ!
中頓別生まれの私です、しばしのお付き合いを。
小2まで、”頓別川の水清く〜”と校歌流れる校舎裏の小川で、どじょっこだの、ふなっこだのと遊び呆けていた典型的田舎育ちの小童べでありました。
ジーサマ・バーサマの話によりますと幼き頃より、なぜかタイコの音を異常に好み、それがチンドン屋だろうがなんだろうが、浮かれてどんどんついて行ってしまう、つまりは目出たきアホなガキであったとのことですわ。
そういえば、その田舎町の大人盆踊りを見た記憶がありますな。
本来子どもはご法度のはずですが、なぜか親父に肩車されて見とりました。
健全明朗なる子ども盆踊りとは違い、夜も更けてからの大人踊りは、血気盛んなる若き男女の年に一度の無礼講的交歓の場でもありましてからして、それはそれはなんとも妖しい光景で、子ども心にもなんかヤバそうと、興奮をかきたてるものでありました。
猥雑で土臭く、でもなにやら美しい動きと、ドンドンスドドンドンかカラカッタという単調だけれども、力強いリズムのリフレイン・・・。その光景がある時鮮明によみがえってきたのはおどろきましたな。
'76年1月に山下トリオに入団し、すぐさま2ヶ月半の海外ツアーにでることとあいなり、その最後のライブは、あのモントリュー・ジャズフェス。”フリージャズの夕べ”ということでサン・ラン・アーケストラグループ、山下トリオ、セシル・テーラーグループという並びでしたな。
日本からも応援が来ていて大盛り上がり、こうなったら、矢でも鉄砲でもと意気込みまくり、ホンマあの頃のアタシャ若かった。 アンコールのバンスリカーナでドラムソロです。すでに体力的にも頭脳的にもくたばり果て、ナ〜ンも無しの空白状態。 その時盆踊りのタイコの音がよみがえってきたわけですな、不思議なものです。
私の根っこには、そういうものがあったということでしょう。
アンタのドラムは和風っぽいと言われることがあるけど、やはり、そういうことなのでしょうな。
話をガキの頃に戻しますってえと、三年程稚内に、そして、小五の時、札幌にまいりました。音楽愛好遍歴を申しますと、中学の頃には、ラジオでヒットパレードなどをよく聞き、現在オールデイーズと呼ばれるポップソングを楽しんでおりました。とりわけR&Bの元祖・レイ・チャールズさんにはしびれました。
後に東京で2度コンサートを聴きましたが”ジョージア”が始まったときには涙でしたかな。
”音楽に愛されている人”とはこういう人のことを言うのだなと、いたく感動した次第です。
インストバンドの草分け・ベンチャーズにも魅入られましたわ。 高校に入り、悪童仲間とバンドを組んだりしましたな。安いドラムセットをやっと手に入れ、見様見真似で、ドンタタドンタと、いたって平和にやとったわけです。 (続く)
ジャズという音楽にいつ出会ったのかと、つらつら思いおこしますに、 ”死刑台のエレベーター”とか危険な関係のブルース”などの、いわゆるシネマジャズは、自然に耳にしてましたな。
とりわけ鮮明に記憶しているのは、高校生の頃でしたか、テレビでアート・ブレーキー&ジャズメッセンジャーズをたまたま観たわけです。 リーモーガンの居た頃ですね。
すざましくカッコイイ音楽で、鳥肌モノでした。ドラムソロなどは、いったい手足の関係、どないなっとるねん!と素朴に驚いてましたね。早熟の友人にマイルスやコルトレーンなどを教えてもらい、結構のめり込んでおりましたな。あの頃は、四大ドラマーの競演とか、ドラムス好きには垂涎のコンサートがいろいろありました。私もアラ、うれしやと行きましたとも。フィリ−・ジョ−、マックス・ローチ、シエリー・マン、ロイ・ヘインズの競演やら、アート・ブレーキー、エルビン、トニーの代役でケーニー・クラークの競演。いまだにその光景が眼に焼き付いとりまて。
私自身は無いモノねだりか、あの理知的で学者然としたマックス・ローチに心酔してましたが、コルトレーン・バンド退団直後のエルビンさんを聴いたときは、あまりの凄さに唯々ア然でしたわ。
かようなすばらしいドラマーを聴いたものの、自分は相変わらずのベンチャーズ路線。
そう言えば、高校卒業のとき、記念のイベントがあったりして、その時はジャズのマネ事をした思い出がありますな。確かトロンボーンとピアノとドラムのベースレス・トリオですな。しかし、同時に、クラリネットを入れて”鈴かけの怪”やら、唄を入れて、フランク永井の”君恋し”をやったりして・・(ちょっと古かったかな)。
なあにをやってんだか、ガハハ。と笑いつつ、20才で上京。浪人かまして、大学に入り、ジャズ研部室に入りびたるという日々でありましたな。やがて学生仲間などと、バンドを組み、あこがれの新宿ピット・インに出るようになりました。
当時は朝・昼・夜の三部制で、わたしら若造は朝か昼でしたな。 朝といっても昼頃から始まり、入場料は確か五百円だったかな。まあ、たまには先輩方に混ぜてもらい夜の部にも。ホントに、いろんな方々に鍛えていただきましたなあ・・・。 プロデビューは池田芳夫4でした。
その後、'76年に山下トリオに入団し、'83年の解散までの7年間在籍していたわけですな。
フリー・ジャズには興味もあり、憧れをもってはいたものの、すぐには飛び込むということは、出来なかったですな。というのも、自分では、少しずつ音楽に対する理解を深め、色んな音楽体験を経てたどり着く豊かな音楽世界という認識でありましたから。 さようにグズグズためらっている小生めに「そういう考え方から解放されることこそフリー・ジャズの精神であるぞよ!」とのお言葉を山下さんからいただき、いたく納得し、入団した次第。
かようにして、どんどんジャズぐれていく私めでありましたな。 (7月号に続く)
『里帰り、そしてこれからの事どもなど』オーデイエンス7月号掲載
山下トリオ解散の後、『ショ−タイム』なる自己のバンドを結成。そして『故、武田和命バンド』『板橋トリオ』、故・板谷博の『ギルテイ・フィジックス』などに参加。『ザ・北海道バンド』を立ち上げたり、林栄一(As)国仲勝尾(六弦)との『ザ・トリオ』(現在は『トリオ座』と改名)もつくりましたな。自己のバンドはその後『一期一会トリオ』(竹内直(Ts)故・是安則克(B))と相成り、初めてレコ−ディングをした次第。埼玉の越生(ふりがな“おごぜ”)という山奥の“山猫軒”なるステキなお店に、“アケタの店”の島田氏が、機材を運び入れ、録音してくれましたな。一泊二日で、初日は、酒を飲んで使いモノにならず、二日目に一挙に仕上げるという早業でしたわ。真夏の夕暮れ時、ひぐらしの鳴き声が遠く近くに聞こえ、なかなかオモロイ体験でしたな。
まあ〜、かような東京の生活をおひらきにして、一昨年の9月に帰ってきたわけです。45年振りの札幌の暮らしは、当初若干のとまどいもありましたが、やはり小・中・高校と育ったところでありますからして、馴染むのも素早いわけで、北海道の気候風土というものは、ア〜タ、なんとも心地よいものであります。これで少し、ゆったりと音楽にたずさわれそうと思ってましたが、おかげさまで、いろんな方とライブができるように相成り、ありがたい限り。これからも充実した音楽活動」ができそうですわな。
東京で、共に演奏する事が多かったベ−スの立花泰彦氏も、今は浦河に居をかまえ、音楽活動を続けてますが、彼と小樽の奥野義典氏(As)との『T・K・O』は、今後ともやり続けてゆくことになるでしょう。 私自身のユニットとして『幽玄響北方派』もどんどんやっていきたいですな。さらに、トランペットの横山裕太氏とやっているインプロ・フリ−ミュ−ジックも広げていきたいものです。また、今までやってきたような、ソロ(音噺)、デュオ(音三昧)も継続したいですな。そう言えば、ソロアルバムの“無言歌”は50才の時、“音噺”は60才、次は70才、古稀(ふりがな“こき”)ではないか!、ウ〜ム、こうなったら、コキまくりますか!
旅も、可能な限りやりたいですな。いろんなオモロイ連中と、セッションするのも楽しみですし・・・。“一期一会”的セッションつう事ですかな。まあ、つまりは、森羅万象・神社仏閣・一切合財これ”一期一会”という事でありましょう!!
加えて、東京でのホット・ミュージック・スク−ルでやっていたようなクリニック的なことや、ワ−クショップなども、やりたいものですな。
てなわけで、今後ともひとつよろしく、ごひいきに!
“うすたらん なまらんけらん
わしゃしらん
ぺたんこそらん あらんどしたん”
山彰太
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最終更新: 2015年10月25日